他のボイトレの対応や自分の反省をこめて思うことがあります。
ボイトレの良し悪しを判断するとき、経営者の立場から言いますと、どうしても「生徒が長続きする」という点を無視できません。そのための方向性としては「1.うまくなったことを実感できる」と「2.来ること自体が楽しい」という要素を外すことは出来ません。このおもな2点をスポイルするやり方があるので少しずつ確認したいと思います。
自分の得意分野以外の音楽を否定する
ある生徒さんが歌の上手な先生のところに通っていました。ところが半年もたたずやめてしまいました。不思議に思ったオーナーちゃんは聞きました。「おやおや、どうしたんだい?あんなに歌うことが好きだったのに」と。するとこういう答えが返ってきました。「先生は洋楽専門で、私の好きな日本人の曲を『こんなの音楽じゃない』って言うんです。」
この一言は、いくつもの面から生徒の心をポッキリ折ります。好きな音楽を全否定されたという直接的な衝撃もあるでしょうし、駄目と烙印を押された音楽を好きだという自分自身も「駄目なヤツだ」と言われたように感じる間接的衝撃。このような一言を言ってしまう先生は、仮に本人が上手でも、仮に教える技能が高くても、「人間としてどうよ?」という感じがします。
なぜ自分の得意分野以外を否定したがるのか?
ここからは音楽的な問題よりも心理的な問題です。上記の例は、実は通常の学校でもよく起こっていることなのではないでしょうか。先生の心無い一言で生徒が深く傷つく。こんなことはよくありますね。これは「立場」がもたらす心理作用だと思います。
「先生」というものには「立場が上にいる者」という意味合いが含まれます。そしてそれは「下の者に負けてはいけない」という気持ちの流れに変わりやすいのだと思います。すると常に優位性を保ちたい、いや保たねばならないという意識が知らず知らずのうちに生まれてくるのではないかと思います。まあ、それとは別に、プラスの心理として得意なものを教えたほうが生徒のためになる、というものもあると思います。また、自分の好きな音楽に対しては、自然と造詣が深くなり、それを根拠に、「自分は音楽性が高い」と思い出します。逆に興味のないジャンルに対しては研究もしませんし、好きでないジャンルに対しては、「あなたも好きじゃないよね」と同じ意見を生徒に求めたがるのではないかと思います。これがまずい。数学の問題でもない限り、絶対的な正解はないし、それこそ好みなど千差万別。その人の好みをきちんと尊重できなければ「先生」を名乗ってはいけない、そんな気がするのです。
一方で「先生」は、先生になった瞬間から上の立場としての環境を強要されます。学校の先生などは大学を出たとたんに「先生」です。これはこれでつらいのは分かります。しかしながら人間には、できることとできないことがある。相手を自分に合わせようとするのではなく、相手に自分を合わせる努力が何より大事なのではないかと思います。